日々、淡々と

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因果応報なんて嘘じゃないか

「世の中は理不尽だ」と言う人はいつもいるし、それに対して「甘えるな」と何故か上から目線で説教する人も後を絶たないらしい。

個人的には世の中は理不尽だと思うから、前者に与したい。

 

(別に理不尽という言葉に対比させるつもりはないが、)因果応報という言葉は、一義的には嘘だと思う。

世の中悪いことをしている人が幸せになれないなんてことはないし、馬鹿正直に生きている人が外れくじばかりなんて普通にあるはず。俺なんて昔から嘘をつかないようにビクビクしながら生きてきたのに、さっぱりモテない。これはまさに理不尽。

俺の経験では、何か悪いことが起きるたびに「こんなに悪いことがあったのだから次はいいことが起きるはず…」というような考え方をしている時に限って、悪いことしか起きない。自分でも驚くほどに悪いことばかりだ。そんな時は神様や仏様みたいな形而上学的な存在、何らかの意味で超越的な存在、に対してビクビクしてしまい、神社の前を通る時やお地蔵様を見る時には無駄に緊張してしまう。それで人に対しても悪いことを言ったりしないようにしてひたすら因果応報を信じて事態の好転を待つが、いいことなんて起きないのだ。逆に、嫌なことは0で、幸せしか存在しない人生を送っている人も存在していて、自分もそうなろうと思えばなれるのだ、と無条件に考えてみると、案外楽に毎日が過ごせる。試験にも受かるし、いろいろツキが回ってくる。

だから、因果応報なんて嘘だと思う。こんなことをバカ正直に気にしてビクビク生きている人生なんて損ばかりだ。

 

しかし、では因果法則という言葉自体が無意味なものかというと、そうではない気もする。昔から「奇跡は起きないと思っている人にしか起きない」という法則を俺は信じている。とても逆説的だ。前提が違った形で、原因と結果が与えられるような。

因果応報に関しても、「因」とは別の時限での「果」が与えられているのだとも考えられる。例えば何らか物質的な意味での「果」を想定して「因」を積んでいた俺の場合、「因果応報なんてものは成立しない」という教訓の形で「果」を与えられたのだ。この教訓のおかげで、因果応報という考え方から脱却して精神的な幸せを得ることができた。でもそれはよく考えると、因果応報が成立しているとも言える。因果応報を否定することを、因果応報によって知ったというわけ。

 

ちょっと詭弁ぽくなってしまったな…。でもこうやって何の役にも立たないであろう、抽象的なことを頭の中でぐるぐる考えている時間は楽しい。

本当に何の役にも立たないけど。