日々、淡々と

毎日淡々と生きていきたい

人生の苦しみ

こういう、何と言えばいいのか、本質的なことについて語ることはできるだけ避けてきたことだけど、リアルでこのことについて話す人もいないし、ブログでくらい書いても構わないかと思った。

 

何故苦しみがあるのか、どう向き合えばいいのか、どこからやってくるのか。苦しい時に限ってそういうことを考え始める。苦しくない時には不思議と何も考えないもので、あっという間に1年や2年が過ぎていくけれど。今は以前ほど苦しい時ではないけれど、それほど楽でもないので少し考え始めてしまった。人生の苦しみについて、親しい友人であってもそれについて話す機会はほとんどない。それは多分、苦しみというのが他人と比較できるものではないからだと思う。往々にしてみんな自分の苦しみが他の誰の経験よりもつらかったと思っているし、それは大体の場合本当だと思う。なぜなら、天地がひっくり返っても他人の苦しみを経験することはできないから。一体誰がわが子を失った母の苦しみをその経験なしに理解できるだろう。

 

俺自身、自分がこれまでの人生で経験した苦しみを考える時、他の人を見て卑屈な考えに至ることがあった。なぜあいつはあんなアホ面をして笑っているのか。ぶっ飛ばして苦しみの中で殺してやりたい。今に大金持ちになって見返してやり、あいつが卑屈な気持ちになっているのを眺めてやりたい。なぜ他の奴らには自分と同じような苦しみがないのか。あまりに不公平だ。人生のうちの苦しみの総量がなぜこんなにも人によって違うのか。

 個人的なことを言えば、自分に自信満々の男性と、何も考えてなさそうな女性と話す時、見る時に最もよくこの憤りを感じる。

俺には以前ある女性の友達がいたんだけれど、彼女は俺が一番嫌いなタイプだった。彼女がこれまでの人生で何か大きな苦しみを経験して、それに正面から向き合ったことが一度でもあるとは全然思えなかったし、またそれが故に、他人の苦しみに対する想像力を著しく欠いているように感じられたから。まるで他の人が自分と同じような幸せを享受して生きてきたのが当たり前のように思っている感じが、本当にたまらなく嫌いだった。世界に対して楽観的な見方をしている人だったけれど、その楽観性は単に暗部から目を背けているだけにしか思えなかった。俺だって別に心に傷を抱えた人やストレスに弱い人達だけで集まって傷を舐め合うことだけが人間づきあいだとは思わないけど、自分とは生き方があまりに違いすぎた。彼女の話を聞いている時、よく心の中で思っていたーーー俺はお前とは違うんだ。お前みたいにアホ面して延々どうでもいい話を垂れ流しているクズとは違うんだ…。

でも、これはよくよく考えれば大変なこじつけ、ルサンチマンだ。実際には弱者は救われない。延々アホ面して笑っていられる人生を持てる奴は他人がどう言おうと勝ち組だし、そうはできなかった奴は自分でどう負け犬の遠吠えをしようが、負け組なんだ。肥えた豚と貧しいソクラテスのどちらが幸せな生き方かなんて、そんなのわかりきったことで、ソクラテスを選ぶ理由なんかどこにもない。一体どんな種類の神様が何匹この世界にいるのかは知らないけれど、少なくとも今眼の前にある苦しみを物理的に消してくれる神様なんていないし、居たとしてもだいぶ大昔に糞みたいな神様たちに殺されて駆逐され尽くしてしまって、ろくな奴は残らなかったんだ。きっと。となると、残された選択肢は今現実にこの世界を牛耳っている(その糞みたいな)神様に合わせた方法で生きていくしかない。言い換えれば、現実的に幸せが得られる生き方を探すしかない。

馬鹿になれ。他人をみるな。幸せの閾値を下げろ。

 

こんなバカみたいな努力が実ったのか、ここ数年はなんとか憤りを乗り越えて、「諦観」に至った。要するにことわざにもある通り「他人は他人」。真剣に他の人のことを考えない。突き詰めて考えれば自分ではない他の人・モノなんて、自分に比べれば心底どうでもいい。俺は今でも心からそう思っている。仮に他人が何らかの重要性を持つとすればそれは自分との関わりの中でだけ。ホームレスに小銭を渡すのだって、自分がそこから満足感を得られるからであって他に何も理由なんてないんだ。何も自分との関わりがなければ他人を気にすることなんてない。これを否定することは無理なはず。なにせどうしたって自分からは逃れられないんだから。

つまるところ、他の人を見て羨んだり恨むことで自分の幸せが手に入らないのであれば、それをやる意味なんてないんだ。俺の嫌いな法律学で常にそうなように、ある論点がプラグマティックでないなら、そもそも存在理由がない、論じる意味がないと考えて思考停止するのが正解なんだ。俺は、本当に、これが一番うまく行く方法と信じている。目をつぶれば他人は見えない。寝てしまえば他人を意識しない。他のことを考えればその人は心から消える。離れてしまえば見えないし臭わないし触れることもない。要するに、結局他人などこの世界に存在していないに等しい。本当に。

 

 

 

 

・・・でも今でも、どうしてもふと思ってしまうことがある。なぜこんなにも不公平なのか。よしんば他人を抜きにしても、なんでこんなに苦しまなければならないのか。人は生物として生まれて、こんなに辛いことを経験するためにはるばる500万年も進化を続けてきたのかと思うと、心の底からアホらしい。この世界の最初の最初に戻ってスイッチを密かに切ってやりたいくらいにはアホらしい。

仏教では一切皆苦、全てが苦しみという教えがあるらしい。もちろんそれは教えの前提であって、この事実に気づくこと自体は涅槃に至る過程のごく初歩的な一ステップにすぎないのだろうから、こんな一部分だけを取り上げること自体が恐縮だけれど、本当にその通りだと思う。次から次へと苦しみは湧いてくるし、嬉しい感情だって裏を返せば逆振りして辛さを感じるための前提でしかない。

俺はそれを知ることをやめたい。苦しみからなんとか目を背けて、幸せを見つけながら生きていきたい。そう願っている。