日々、淡々と

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エセ評論家とは何か

「文字、そして文章を書くということ」

 

人は文字を書く生き物である。

文章に表すことによって、思考・思索・思料、とにかく何でもいいが頭に浮かんだことが紙の上に表される。もちろん、思念・観念に顕現化するといっても、それは誰か自分以外の他者によって文字として認識され、読まれることによってのみ観念として、何らかの意味を持った概念の集合体として立ち現れるのだ。

あたかも近くで見ると意味のない点の羅列のように見えるモザイク画が、遠くから観ると急に肖像画とわかるかのように、意味のないものから意味が立ち現れてくる瞬間がそこには存在する。もちろん正確には意味の「ない」ものではない。無からは何も生まれない。文字は無ではない。そこには、誰か文字を書いた者の意志が、その線に、絵に、意味をもたせようとする強い意志が、込められているのだ。この意志が一つ一つの線の中に刻まれ、誰かに読み取られる瞬間をじっと潜んで待っているのだ。その意志は人と結びつくことによってのみ命を持つ。誰にも読み取られない文字は、ただの記号だ。否、記号ですらない。ただの存在である。ただの存在に意志はない。しかし意志は完全に死んだのではない。この世の何処かに文字を文字として認識する可能性がある人が存在する限り、文字に込められた意志の命は、一つ一つの線、そして線の交わり、そして線のカーブ、線の角のすべてに、ひっそりと、しかし決して消えることなく潜んでいるのだ。意志が完全に死ぬのは、書いた人が死んだ時ではない。文字が消された時でもない。読み取る者が存在しなくなった時、一種の知性がこの世から消えた時である。もしも人類が消えたとしても、知性が他にあれば意志は死ぬことはない。しかし人類が例え生きていたとしても、その一種同一性を持って受け継いできた知性ー文化といってもいいーがこの世から消えた時、意志は完全に死ぬのである。意志は書いた者の手を離れ、独自の命を持つ。その独自の生命はまた、自ら生きる術を知らない。その生命は、他者が存在するという事実のみによって永らえているのである。

そんなことをよくよく考えてみれば、文字を書いて文章を構成し、その文章を誰かが読むということはなんと不思議で、そして神秘的な行為ではないか。

人類はかつて言葉を持たなかった。ただ人類は群れ、その群れていることを音(聴覚)や光(視覚)で確認していた。目的と手段という概念は存在していなかったに違いない。ただ、群れて生きていたのだ。群れること、そして目と鼻、耳などを使って交感することが生きることだった。それ自体が目的であって手段であった。人類はそうやってジェスチャーや音を使って互いに交感し、やがてその交感行為は、一定の他者に伝えることを目的とする感情・感覚を帯び始めた。いつしか一部の交感行為はコミュニケーションとして成立し、目的兼手段としての現在ではなく、手段と分化された目的としての未来に向けた内容を他者に伝えるための手段としての媒介手段と化したのである。かつてはそれ自身が目的だったものが、ある意味では手段に成り下がったのである。

やがて人類はその有用性に気がついた。もしくはそれを使うことができない群れは生き残れなかったのかもしれない。ここでの因果律はさほど重要ではない。ともかく、それは言語という人類独特の複雑で神秘的な一つの世界をつくりだしたのである。

この交感としての音や身振りと並行して、土や岩などに絵や図を書くという交感も行われ、同様に発達してきた場合が会ったに違いない。その視覚的な試みと、聴覚的な試みのどちらが先に発達したのかはわからない。だがいつしか、その2つの概念は結びつき、言語という一瞬でその場限りのコミュニケーション手段を文字という記号で同じものを表すことによって時間的に伸ばすことを考えついたのだ。文字、そしてその集合としての文章に対して感じる神秘性は、この独特な2つの系の邂逅によって成立したという歴史的な経緯に要因のいくらかはあるのかもしれない。

文字を書くこと、文章に表すことによってヒトは脳に浮かんだ想念を他者に伝えるのに十分なほどに確定させ、意味を絞ることができる、ということになる。実際ヒトは、自分の頭のなかで考えていることを文章にするとき、意味を明確にするために多くの背景を捨象しているのであり・・・

 

 

 

以上の文章から言いたかったことは、難しい言葉を使って全く意味のない文章を書くということを、自分の中で確かめたかった、ということです。

こんな全くの無意味なことで生活費を稼いでいる人たちが世の中にはたくさんいると思うと、ほんと世の中って意味わかんないですよね。