日々、淡々と

毎日淡々と生きていきたい

来し方行く末を考える

老後について自らの生活をきっちりプランニングしている人ってどのくらいいるのか。

 

正直に書くと、私には何もプランがない。というか、どうしても想像できない。

 

随分乱暴な言い方をすると、そもそも多くの人はまともに自分の人生設計などしていないと思う。それを考えるだけの余裕がないのではないかと思う。それに日本人の多くは、「自分のことを自分で考えて決める」ということから逃げたいと思っているのでは。そうでなければこんなに画一的にサラリーマンを生み出し続ける就活というシステムが回るはずがない!(確信)

まぁとにかく、実際それはとても面倒なことだと思う。

 

私についても然り。きっちり目標を描き、それに向かって努力するというのは非常に面倒。「資産を形成して好きなときに沖縄に行ける状態にする」という目標はあるし、それ以外にも「高級車に乗りたい」とか「飛行機はファーストクラスに乗りたい」とか、「高級シティホテルにだって好きなときに泊まれる身分になってみたい」という願望はある。こういうことにはキリがない。しかもこういうことは、しっかり目標として設定して、そのために必要な行動を考えて継続的に実行していけば必ず達成できるものでもある。でも実際にはなかなかそうならない。そこまで頑張れないから。おつむも精神力も、そんなに一つの目標に向かって長く努力し続けるということに堪えられない。

 

 

若干話がずれたが、老後をどう過ごすか、そしてどう死ぬか、ということは絶対に誰も避けて通れないことであるのに、どうして深く考えられていないんだろう。それは恐らく、上述した理由で考えるのが面倒だし、それに少し怖くもあるのかもしれない。少し考えればわかるが「孤独の中で死ぬ」というのは、近年自らの将来として非常に現実味のある話だ。周りで孤独死しそうな親戚が一人もいないという人の方が今は珍しいだろう。孤独死すること自体は構わないが、孤独死に至る過程には孤独な数年、いや数十年がその前に存在するわけである。そんなことを考えると身震いがしてしまいそうである。だからこそ将来、特に老後を考えるのが怖いのである。

 

昔どこかで読んだ評論文で、市民社会が発展すると社会は個人主義を促進し、「部族」から「家族」へ、そして究極的には「個人」が暮らす社会に近づいていくのだ、という話を読んだ。もしそうだとすれば、核家族化というのは、ただその段階にとどまるような動きではないのかもしれない。核家族でとどまるのだったらまだいい。各家族であれば老後、もしかしたら子どもが結婚せずに実家に残って自分の面倒を見てくれているかもしれないし、そうでなくたって配偶者だけは少なくとも死ぬまでは会話の相手になってくれているはずだから。だが、もし核家族化より更に個人主義化が進み、配偶者も、そして子どもも離れてしまった場合は一体どうなるのだろうか。定年で会社を辞め、年金でかろうじて暮らし、会話の相手は一人もおらず、一人部屋にこもって何年も書けてゆっくりと朽ちていく・・・というのはあまりに悲観的すぎる見方だろうか。

 

おひとりさまの老後

おひとりさまの老後

 

 

私はこれまでの人生では、ことある度に何かしらロールモデルを考え、自分がそうなれるように努力し、行動してきた。例えロールモデルが実在しない場合でも、空想で補い、そうなれるようにと思ってモチベーションを保ってきた。だが今、老人としてのロールモデルが思い浮かばない。かっこいい老人というのが、どうしても私には想像できない。いつか自分が老いることがわかりきっているのに。

 

今はまだ若く、日々多くの刺激がある。街を歩けば若い女の子に目を奪われるし、大学を卒業すれば就職という新たなステージも待っている。周りの友人のバカ話にも事欠かない。それらが殆どなくなってしまった時、普通に生活していくということができるだけの精神的な豊かさを持っているだろうか。また、関わるコミュニティが減っていく中で気の合う友人を作っていくことができる能力があるだろうか。

 

老後について、どうしても悲観的にならざるを得ない。