日々、淡々と

毎日淡々と生きていきたい

所与の前提はないはず

ある日、水槽に浮かんだ脳というのが脳である必要はなく、代わりに空気でもいいことに気がついた。そして空気ではなく真空でもいいのではないかと思った。いっそ真空ではなく、無でもいいのではないかと気がついた。つまるところ、この世界や感覚が存在している基盤なんてこれまで自分で考えていたほど強くないことを実感した。

で、それを嬉しく思って人に話したら鼻で笑われた。

 

 時代背景を無視して過去の事柄を批判するのは人であれば誰もがやってしまうことだけれど、一般的に人は自分の周りにある環境、自分の周りの人の言っていることを「当たり前のもの」「正しいこと」として捉えすぎる傾向が有るのではないか。また、自分で調べたり、自分一人で考えることを軽視する傾向が有るのではないだろうか。

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日本人はなぜ日本のことを知らないのか - 竹田恒泰 - Google ブックス

純粋な日本人と在日韓国人と在日中国人の見分け方は? - @nifty教えて広場

 (ちなみに上記リンクは自分で調べたり考えることを放棄してしまっているように思える例として挙げただけで、見る必要も価値も全然ない…と思う。多分。)

 

例として…

・この世が存在することは自明ではない

・「気」が科学的なものでないということはできない

・自分が自分であるという証拠などない

などとどうでもいいことを言うと、必ず批判する人がいる。そんなものは現代科学で否定されている、というのだが、彼らの言う現代科学とは一体何なのか。本当に証明できるのかと問われると誰もできないのではないか。

古代ギリシャの哲学者たちは実に合理性を重んじて思想を展開したという。その彼らが例えばエンペドクレスであれば四元素が全ての元になっているという話をしていたわけだが、それが嘘で、現代科学が証明している元素や分子などがすべての元である、という言説は私には完全に肯定することはできない。どちらもそれなりの根拠があって説得力が有る。その説得力に対する納得の度合いに差があるかも知れないが、それは単に置かれた時代や環境の差でしかない。真実と嘘の差ではない。どちらも同じ程度に真実だと思う。

当たり前のことを疑うということに対して、無視するにとどまらず、病的に嫌う人もいる。私には彼らのことが全く理解できない。そればかりか、嫌悪感さえ感じる。彼らは2種類に分けられる。まずは「現代科学」や「現代の諸学問の水準」などという自分でも理解していないものを取り上げて「当たり前のこと」はすでに証明されていて疑いのない真実である、という人たちだ。彼らは、私の言うような素朴な疑問が「現代の諸学問」である哲学や物理学の領域でも生じていることを知るとどう思うのだろうか。

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 また、そもそも現代科学や現代の諸学問は因果律を基礎においている事が多いが、因果律の正当性など誰も証明できないのだから、彼らの立場はいずれにしても(「現代の諸学問」を介在するにせよしないにせよ)間違いだと思う。

充足理由律 - Wikipedia

 次に「そんなことを考えてもどうにもならない」「何の役にも立たない」という人々である。これに対しては、確かにそのとおりだと答えるしかない。でも少なくとも、そんなことを言う人々のどうでもいい、取るに足らない人生の何回分よりも、こんな素朴な疑問を深く心のなかで追求できる時間は私にとって何倍も意義があるように感じられる。また、そもそも「役に立っている」の基準だって一義的に定まるわけでもない。科学技術が人を幸せにしただろうか。人が人を産むことは何かの役に立っているのだろうか。(少なくとも母が私を産んだことは私にとっては役に立っていないように思える。)国益というのは本当に全ての人間の役に立つことの集合なのだろうか。死ぬことは本当に「役に立つこと」の対極にある事柄だろうか。つまるところそういう人たちの立場は否定はできない。が、私には理解できない。ということで彼らには、彼らにとって「役に立つもの」をかき集めるだけのしょうもない人生を送ってもらって、私の目に入らないところで勝手に死んでいってほしい。(もちろん見方を変えれば、私も彼らにとってはそんな勝手に死んでいく一人だが)

 

理解し合えない人に鼻で笑われて、私は互いに理解し合えないことを深く痛感し、自分と同じ感覚を持つ人とだけ生きていけたらどんなにいいだろうと思う。少なくとも身近な人はそんな感覚を持つ人だけいてほしいものだ。

 

残念ながら、私の周りに私と同じような考えを持つ人や感覚を持つ人はいないようだ。こういった事柄(当たり前をあえて疑ってみるワクワクを楽しむようなこと)を共有できる人が周りにいないことは私にとって寂しいことだ。同じ感覚を共有する人が今後私の身の回りに現れてくれることを切望している。